月の下、奏でる音

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粉々になって砕け散った鏡は、光をも散らばせた。

ムーンペタの薄汚い路地裏にパシン、と手を叩く乾いた音が響く。

「触らないで」

咄嗟にかけたオレンジのマントが風に虚しく揺れている。「よかったです、ミモザ王女。すぐに宿屋へお連れしますよ」そんな台詞を吐いていたエルトは、そのミモザ王女からの拒絶に思わず言葉を失っていた。

「……王女?」
「やめて」
犬の呪いが解けたムーンブルクの王女――ミモザは、寒々しいことに裸である。エルトが気を使って自身のマントをかけてやったまでは良かったが、その後ミモザはそこから動こうとしない。

痺れを切らしたリグが、軽い舌打ちをしてから話し掛ける。
「……おい、いつまでもこんなとこにそんな格好でいられねえだろ。とにかくほら、立ち上がれって――」
「放っておいて。お願いだからあっちへ行って!」
王女の声は悲痛な叫びにも聞こえた。
頑固な女だ、とリグはこめかみに青筋を立てながら思う。
「おい、王女さまがそう言ってるんだ。放っておいて宿に戻ろうぜ。もうくたくただよ、俺」
毒の沼地で必死こいてラーの鏡を探して、ここまで持ってきて彼女の呪いを解いてやったというのに、こんな言い草をされては疲れも二倍、三倍になってしまう。別に少しくらい放っておいたって死にはしないだろう。そう考えて投げたリグの台詞だったが、エルトは賛成したくなかったようだ。
「そういうわけにはいきませんよ。ただ、君が疲れているのも分かりますから、リグは先に宿へ戻っていてください。僕はあとから行きます」
「………」
悠長なことを言いやがる。リグは思う。いくらロトの血を引く者同士とはいえ、今までの人生で数回程度しかまともに会ったことのない人間相手に、よくそこまで真剣になれるものだ、と。

エルトは再びミモザに向き直る。
「王女、意地を張らないでください。こんな所にいつまでもいられたら、僕らも困ってしまいます」
「勝手に困ればいいじゃない。わたしがどうなろうとあなたたちの知ったことではないでしょう」
「……そんなこと、ないです」
ここでリグは、おや、と思った。
なんだかいつもよりもエルトの声色が、心なしか低いように感じる。……気のせいだろうか?

「ローレシアの王子が言う通りよ。わたしのことなんか放っておいて、早いところ宿で休んでこの町を出て行けばいいわ」
「王女、あなたも疲れておいでのようです。同じ宿に泊まらなくてもいいですから、せめて身なりだけでも……」
「触らないでって言ってるでしょう!」
エルトが手を伸ばすと、反射的にミモザが魔力を迸らせながら威嚇してきた。
まだ犬のつもりなのかよ、とリグは離れたところから冷ややかな視線を王女に送る。
彼女は彼女で大変な思いをしたのだろう。だが、自分たちは自分たちで、ここまでの道のりをボロ雑巾に成り果てながらやって来たのだ。その努力と苦労を無下にされてはむかっ腹も立つというものだ。

「ミモザ王女、無理をしちゃだめだ」
「うるさいわね。バギを唱えるくらいの魔力なら残ってるわよ」
いつものんびり構えているエルトが、珍しく焦っている。そのことに気付いているのだろうか、ミモザも煽るような口調を使っていた。
「かまいたちでズタズタになりたくなければ、早くここから立ち去りなさい」
彼女の周りを真空の刃が飛び交いはじめる。あれに触れたら、決して浅くはない切り傷が無数に身体についてしまう。これはだめだ、やはりいったん放っておくべきだ――そうリグはエルトに切り出そうとした。

「………」
ふう、とエルトは溜め息を吐いた。

そして、
「………わかりました」
と言い放つと、更にミモザに近寄っていった。

「おいっ」
「!」

リグとミモザは同時に驚きの表情になる。もともとボロボロであったエルトの身体に、更に無数の真新しい傷がつく。痛みに顔を歪めながらも、エルトは後ずさろうとはしなかった。

「おいこら王女! やめろ!」
「……!」
「聞こえねえのか、その魔法をやめろっつってんだよッ!」
「ッ!」
そこでようやくリグの声が王女に届き、ミモザは魔法の発動を取り消した。

「エルト、大丈夫かよお前ッ?」
「あーいたたたぁ〜、大丈夫じゃないですよ、全然ー…」
「………」
駆け寄って来たリグに、苦笑交じりで返すエルト。ミモザは呆然と、彼につけてしまった無数の傷と、そこから滴る鮮血を見つめている。

途端、王女の全身がガタガタと震え出した。
尋常ではない震え方だ。それを認めて、エルトとリグはミモザ王女に再び声をかける。
「王女、とにかく一度、僕らと一緒に来てもらいますよ。いいですか?」
「訊くまでもねえだろ。こんな凶暴女、町に放ってられるかよ。連れて行った方がいいに決まってるぜ」
「りぃーぐ、そういうこと言わない。――王女、失礼します」
エルトが、マントを身に纏っただけのミモザの両腕に両手を添え、立ち上がるように促す。今度は彼女は素直に、ふらふらとしながらも立ち上がってくれた。

「ったく、最初っからそうしときゃいいんだよ、このアマ」
「リグ、悪役の台詞だよ、それ」
触れた手のひらは温かく、どこか間の抜けた二人の王子の会話が、ミモザの耳元にそよかぜのように触れる。
その温度とくすぐったさは、彼女の心の表面を少しだけ震わせる。

「う……」

か細い嗚咽に、ぎょっとした表情を少年達は作る。王女が突然、涙を零し始めたのだ。ぽろ、ぽろ、と控えめに落ちる涙は、瞳から零れる宝石のようだった。
「…ぅうー……っ」
ぎゅっとミモザはオレンジのマントを握り締めた。涙がマントに落ち、染みてしまっている。エルトは「もー」とそこまで怒ってなさそうな口調でリグに視線を向けた。
「ほうらリグ王子。君がいくつも酷いことを言うからだ」
「お、俺のせいかよ?」
「大丈夫ですか、王女。リグ、僕の荷物持ってくれますか」
「おう…、わかった」
腑に落ちない非難をムリヤリ呑み込んで、リグはエルトの荷物を持った。エルトは王女の身体を優しい手つきで支えながら宿屋まで向かった。



宿屋に取っていた部屋へ着くと、エルトはすぐに踵を返した。リグが慌てて声をかける。
「どこ行くんだよ」
「何か着るものを借りてきます」
ベッドに座らされたミモザは、エルトのオレンジ色のマントを身に纏いながらじっと俯き、黙ったままだ。
「……あー、ええと、ミモザ王女?」
リグはぽりぽりと頭を掻く。こういう空気はどうも苦手だ。親しくもない女を相手にするのも、気分の落ち込んだ人間を相手にするのも。
「あ、な、何か飲み物でも……」
「結構よ」
「…さいですか……」
(これだよ…)
気まずい。なんとも気まずい空気だ。この王女もこんなにまで意地を張らなくたっていいだろうに、とリグは心中で思う。
(――いや…)
だがすぐに思い直した。
(俺はこの王女みたいな目に遭ったことはない)
魔物の手によって自分の国を滅ぼされる。そんな経験は勿論だがしたことはない。彼女の心中は察するに余りある。とてもリグの経験上からの想像だけでは補えないだろう。
「………」
(仕方ねえな)
リグは一通りそう考えた後、部屋のドア付近の壁際に身を寄せた。エルトのやつ、早いとこ戻ってこねえかな、などと考えながら。

「――…、出て行かないのね」
「あん?」

ぽつりと零されたミモザ王女からの一言に、リグは意味を計りながらぶっきらぼうに返事をした。

少し躊躇ってから、ミモザがまた口を開く。
「冷たい態度を取っている自覚はあるわ。あなたなんて、とっくにわたしに愛想を尽かしていそうなのに」
(自覚あるのかよ…)
この態度を、気丈に振る舞っている、とでも受け取ればいいのだろうか。それにしては、まだ身体の震えは止まってはいないようだが。リグは足りていない自覚のある頭で色々考えて、結果、その考えを王女に伝えることに決めた。

「確かに愛想は尽かしてるぜ、俺はな。だが……もう一人の王子の方が、たぶんどうも、そういう感じじゃなさそうだったからな」
「………」
「エルト……、エルタニン王子は、俺がおまえを独り残して部屋を出てどっか行ったなんて知ったら、たぶん俺のことぶん殴りに来そうだ」
「……そうなの」
意外だ、とでも言いたそうな王女の返しに、リグはニッと笑ってやる。
「そう。あいつ、ああ見えて意外とおっかねえんだ。……ま、ちょっと前に合流したばかりの短い付き合いだけどな」
肩を竦めると、王女はリグと目線を合わせてから、また俯いて、それから窓の外へと顏を向けた。

窓の外は、もう西日が強くなっていた。
「………」
またもや無言の時間が続き、リグが所在なさげに身じろぎを繰り返していると、ふと扉が叩かれた。
「お待たせしました〜。お洋服、借りて来ましたよ。いやー、着るのは女の子ですって女将さんに言ったら色々出してくださいまして、どれもかわいいドレスばかりだったから選ぶのに苦労しましたよ」
朗らかな台詞と共に、エルトが入って来た。心なしか二人ともホッとした表情で、彼の再来を歓迎した。
「おう、待ってたぜ、エルト」
「すみません、遅くなって。……ミモザ王女、お疲れのところ申し訳ないですが、こちらのドレスをお召しになってください」
「………」
ふわり、と柔らかな感触が王女の上に舞い降りる。それは淡い水色に染められたコットンドレスだった。
「じゃ、僕たちは部屋の外で待ってますから、お召しになったら知らせてください。行きましょう、リグ王子」
「ああ」
手渡しただけでさっさと出て行ってしまった二人の王子。ミモザは少しまた俯いてから、そっとその水色のドレスに袖を通した。やわらかくて着心地が良い素材だ。これを選んだエルタニン王子の心遣いが伺えた。


「――着たわ」
部屋の扉の前でそう告げると、リグとエルトが扉を開けた。
「うん、やっぱりよくお似合いですね」
「ふうん…、ま、悪くねえんじゃねーの」
さらりとした綿のドレスは、ミモザ王女の気品ある雰囲気にもよく合っていた。エルトは満足気に、リグはとりあえず、というふうにそれぞれ頷いてから、二人は再度部屋の中へと入った。

「………」
そこでようやく、ミモザは気付いた。
バギでエルト王子につけてしまっていた無数の傷が、治されていない。
血は既に止まっているようだが、傷跡は当然だがまだ新しく、生々しかった。

「あなた治さないの、その傷」
自分で攻撃しておいて、そんな言い草はないだろう。そうは思うのだが、ささくれ立ってボロボロになった彼女の心は、他人への気遣いなど全くすることが出来なくなっていた。

王女の言い方にカチンときたのだろう、リグの方は若干しかめっ面気味だ。
だが対してエルトの方はというと、あまり態度を変えてはこなかった。
「ああ、すみません。お見苦しいでしょう」
「…そういうわけじゃないけど」
「いえ、レディの前に姿を見せるのにはこの姿は適していません。……そうだな、教会ならこの傷、治してもらえるかも。ムーンペタの神父さまならホイミくらい使えるはずだ。僕、ちょっと行ってきますね」
悪いことを言っただろうか。ミモザがそう思った瞬間には、エルトは早足で宿の部屋を出てしまった後だった。

「………」
どうしようもないまま立ち尽くしていると、今度こそ頭にきたリグから、彼女へと明確な非難の声が上がった。
「お前さあ、自分の魔法で傷つけておいて、よくあんなこと言えたもんだな」
「……」
腹の底から吐き出すような声だった。リゲル王子は今度こそ本当に怒っている。それはミモザ王女にもよく伝わってきた。
「教会なんて町の端だぜ。今から行ってたんじゃ、戻るまでに陽が暮れちまう」
リグの言葉に、だがわざわざ教会まで行かなくとも、と反論が浮かんできてしまう。そうだ、たしか、ローレシアのリゲル王子は魔法を使えないが、サマルトリアのエルタニン王子は回復魔法を使えたはずだ。
「……どうして彼は自分で回復しなかったのよ」
「はあ?」
確かにもっともかもしれない。もっともな疑問なのかもしれない。だがこの時のリグにとっては、その言葉は無神経にも程がある、と思うに十分なものだった。

「――MP切れてんだよ、決まってんだろ。最初にこのムーンペタに着いてからすぐムーンブルク城まで行って、そっから更に東の毒沼まで行って、泥だらけになりながらあの鏡を探し出して! 今さっき、やっとここまで戻ってきたんだぜ。魔物と戦うヒマはあっても休んでるヒマなんてねえよ。俺、魔法つかえねえから、回復の負担はほとんどアイツにいっちまった。アイツの魔力がすっからかんなの、解るだろ!?」
「……っ」
ミモザは言葉を見失った。
よもやここまで真剣に、命がけで、この二人の王子が自分を救おうとしてくれていたとは、思いもよらなかった。だって、いくらご先祖さまが共通だったとしても、それだけのはずなのだ。今までだって、たまに国家間の交流の場で顏を合わせる程度だったのに、どうしてそこまで懸命になれるのだろうか。もしも立場が逆だったなら、自分は彼らのように行動できるだろうか――?


「………、ごめん…なさい」
小さく細い、今にも切れそうな声で王女が呟いた。
辛うじて聞き取ったリグは、盛大に溜め息を吐き出して、こう言い返す。
「謝るんなら、まあ俺にもだけどよ、もう一人いるだろ。謝る相手が」
開けっ放しの扉を親指で差し、顎をくいと引き上げる。リグはそうすることで、暗に「早く行けよ」と訴えた。

「………そうね」
淡い水色のドレスがひらりと舞い上がり、ミモザはその部屋を駆け足で出て行った。

残されたリグは、ひとりぼんやりと窓の外へと目を向けた。
「………ホントに陽が暮れそうだな……」
とりあえず、宿の女将さんに夕食のメニューについて訊いてくるか。ひとりごちて、彼もまた部屋から外へと出た。開けていた扉を閉めると、パタリ、と乾いた音が廊下に響いた。



宿から外に出ると、もうかなり陽が傾いていた。オレンジの夕陽がムーンペタの町を照らし出している。

影の濃くなった路地を歩んでゆくエルタニン王子の後ろ姿に、ミモザは声をあげかけて、ふと躊躇した。
「………」
なんと呼べば?
彼のことも、もう一人の王子のことも、ミモザはまだ名前を呼んでいなかった。
遠い昔、何かの折りに会った時に、辛うじて名を呼んだ記憶はある。が、それだけだ。それはもっと公の場で、形式張った口調で呼んだだけの名だ。だがその名を呼ぶこと以外、この時の彼女には、彼の足を止めさせる方法を思い付けなかった。

「――エルタニン・サマルトリア王子!」

誰もいない路地だったので、幸いにもその名を聞くものはいなかった。――当の本人、サマルトリアの王子以外には。

歩みを止めた彼の影は長い。
ゆっくりとミモザの方を振り返った彼は、いつもと同じような朗らかな表情に、ほんの少し驚きが混じったような顏をしていた。

「ミモザ王女、どうして……」

駆け寄って来た少女にも夕陽があたる。美しい形の眉を寄せ、彼女は即座に頭を下げた。
「えっ」
「………ご、めんなさい。わたし……」
「王女?」
唐突に謝罪されたので、エルトは戸惑った。
「何も知らずに、ひどいことをしたわ。あなたにも、リゲル王子にも」
ああ、と納得する。恐らく、リグが自分たちのしてきた苦労を王女にぶつけてしまったのだろう。宿を出るときのあの空気感なら、そういう展開になってしまうのも頷ける。

けれどもエルトは全く気にしていなかった。
「いいんですよ、謝らないで」
「いいえ、謝らせて。お願いよ」
「ええと…」
「私ももうMPが空っぽなの。だからあなたの傷も治すことができない。だからせめて……」
そう言いながら、ずっと王女は頭を下げっぱなしだ。一国の姫にこのようなことをさせてはサマルトリア王家の面目が立たない。どうしようか、と思案して、彼は王女に顔を上げてくれるよう願い出た。
「――王女のお気持ちはわかりました。では僭越ながら、私と共に教会まで来ていただけないでしょうか」
ようやく顏を上げた王女に、エルトはやわらかく語りかけた。
「ぼくはサマルトリア人ですから、ムーンブルク領であるムーンペタには馴染みがあまりありません。王女が一緒なら心強いのですが」
「そんなこと――、お安い御用よ。と言っても、わたしも町まで来ることはあまりないのだけど。教会の場所くらいなら把握しているわ」
ミモザが言うと、エルトは声を出して笑った。

「――ムーンペタには、昔、王族教育の一環としてしばらく住んでいたことがあるの」
石畳の地面を歩きながらミモザ王女が独り言のように話す。
「王族たるもの、治める国の人々の生活を知るべき、という教育方針よ。それでムーンペタでお医者さまをしているご家庭に三ヶ月ほどお世話になったわ」
懐かしさに目を細める王女の横顔を見つめ、エルトもにこりと笑む。
「そうなんですか。僕の国でも似たようなことをしていましたよ。もしかしたらロトの血筋は、そういう教育を王族に施しているのかもしれませんね」
「あら、あなたも? サマルトリアの町に?」
「町というか……、僕は旅人についていったんです」
予想外の答えにミモザは目を見開いて驚いた。
「まあ」
その反応を楽しんでか、少し調子に乗ってエルトは続ける。
「旅の吟遊詩人の方でね、彼は竪琴を弾きましたが、僕はリュートを持ってですね。国中を歩きましたよ。いやー懐かしいな」
「それじゃ、あなた楽器ができるのね」
「ええ。サマルトリア人は歌や踊りが大好きですから。良ければ今度お聞かせしますよ」
「………」
今度、と何気なく発せられた言葉に、思わずミモザはハッとさせられる。未来へ向けた約束など、ほんの少し前まで考えられなかったのに、と。
「…楽しみにしてるわ」
やがてそんな二人の前に、夕陽に照る教会の屋根が見えてきた。



「ただいまー」
「おう、おかえり」
宿屋に戻ったエルトとミモザを、リグが迎え入れる。
「いやーやっぱりムーンペタの神父さまは凄いや。キレイに治してくれましたよ」
「ほー、どれどれ。おっ、ホントだ。良かったじゃねーか、たとえ男といえども傷跡はないに越したことはないからな」
「これでいつでもおヨメに行けます」
「どこにヨメに行くんだよ」
ふざけたことを言い合う二人の少年を尻目に、ミモザはベッドに座るとそのまま横に倒れ込んだ。
ふう、と溜息を吐くと、自分がかなり疲れていたことが分かる。ずっしりと身体全体が重たい。

「王女、すみません。お疲れのところを」
気が付いたエルトが声をかけると、ミモザはゆっくりと首を振った。
「……いいのよ。わたしが勝手にご一緒したのですもの。でも、少し疲れたわ。しばらく眠ります……」
「はい、おやすみなさい」
あっという間に眠りに落ちた姫にそっと上掛けをしてやって、エルトはリグの背中を押して部屋を出て行く。
「おい、どこ行くんだよ」
「さっきドレスを借りたときに部屋をもう一つ用意してもらいました。僕らはそっちに移りましょう」
はあ? とリグは部屋の外で不満気に文句を言う。
「この部屋、もともとは俺たちが取った部屋だろ。なんで俺らが移動すんだよ。っていうか部屋代余計にかかっちまうだろうが」
「さすがに女性と同じ部屋で一夜は越せませんよ〜。幸い新しく取れた部屋も二人部屋です。そんなに狭くはないはずですから、ねっ」
「そういう問題じゃねえーッ!」
不公平だ、なんであの女ばっかり。そんなことを言うリグをあれこれ言って宥めながら、エルトも別室へと入って行った。



「………」
ミモザが目を覚ますと、外はいつの間にか真っ暗になっていた。
誰かが閉めてくれたのだろうか。厚いカーテンの隙間からは星の光が覗いている。
(……きれいね)
眠ったせいか少しは体力も戻ったようだ。起き上がって伸びをして、それから彼女は付近のテーブルに置かれていた食事と、添えられたメモに気が付いた。
「………“王女へ。夕食の時間でしたが眠っておいででしたので、食事を用意してもらいました。お腹が空いていたら食べてくださいね。それではおやすみなさい。リグ&エルト”……」
二人の王子からのささやかな手紙だった。のんびりとした文体と筆跡は、恐らくエルタニン王子のものだろう。

布を掛けられていたパンと野菜のスープ、それにミルク。王宮の食事に比べればかなり質素だったが、それでもやはり人の食事ができるというのは有り難かった。
「……おいしい」
暗いままの部屋でスープを口に運び、パンをかじり、ミルクを飲む。それで出てきた感想はそんなものだった。おいしい、と本当に思った。思えば彼女にとっては、人間に戻ってから初めての食事である。かみしめながら食事を進めていると、ふと窓の外に人の気配を感じた。

(――誰かしら)

カーテンをめくって外を伺うと、そこはどうやら宿屋の中庭らしかった。ということは、この宿の宿泊者だろうか。こんな夜に何を、と考えていると、月明かりのおかげでその人物の正体が分かった。
「あ」
(エルタニン王子だわ)
エルトは麦穂のような色の髪を夜風に遊ばせながら、中庭の雑草だらけの地面の上に立っていた。そして適当に腰掛けられそうな花壇を見つけると座り込み、手にしていた弦楽器を構えた。

(……あの楽器は)

夕方、彼が教会へ向かう途中で話してくれた話題を思い出す。旅の吟遊詩人について行った、という話を。

ホロ、ホロン。
エルトの指先が弦に触れた途端に、銀の鈴が宙を舞うような、不思議な音色が響いた。
閉め切った窓越しでも、それはよく聴こえてきた。

月明かりの下。
美しい旋律が、風に揺れる雑草の上、閉め切られた窓の内側へと届けられる。
「………」
なんてきれいな音色だろうか。気付けばミモザは耳を澄ませてその音を聴いていた。はじかれて震えるたくさんの弦が、月の光に照らされてキラキラと輝いている。

邪魔にならないよう、そっとミモザは窓を開いた。外に向けて両開きに作られた窓は、少々がたついていたが、どうにか目立った音を立てずに開けることができた。


「――はい、おしまいです」

それからしばらくして、エルトは演奏をやめた。音の消えた中庭には、今度は虫の声が響き渡った。

「……上手いもんだな」
その声に反応して、ミモザは声がした左前方を見た。中庭を囲んでロの字型になっている宿の、隣の一辺から顏を出していたのはリゲル王子だ。

「なんかさあ、いたよな。おとぎ話かなんかでさ、そんなふうなやつ。有名な詩人だっけ。あいつみたいだな」
曖昧過ぎる情報で褒めるリゲル王子に、思わずミモザはツッコミを入れてしまう。
「それ、ガライでしょう、吟遊詩人の。ロトの時代にいたとされている伝承の人物よ」
「そうそう、それだそれ」
あっけらかんと返してきたリゲル王子。ミモザは少し戸惑った。この王子ともそんなに良好な雰囲気ではなかったはずなのに。喉元過ぎれば、というタイプなのだろうか?

「ええっ、有名な吟遊詩人の名を出されるなんて、さすがに照れちゃいますね」
へらへらと笑うエルトにつられて、くすりと王女も笑った。

その様子を見て、窓から顔を出すリグと中庭で腰掛けるエルトは、思わず顔を見合わせて、にんまりと笑いあった。
「な、なに?」
にやにやと笑う二人の王子に、気味が悪い、とミモザは若干引き気味だ。
しかしエルトは笑ったままで言う。
「いえいえ、だってミモザ王女がようやく笑ってくれたものですから」
「え?」
うんうんとリグも頷いている。
「おまえ、やっと笑ったなぁ。ずっと無表情のままだったらどうしようかってエルトと言ってたとこだったんだぜ」
「………」
そうだっただろうか、と王女は考えてみる。確かにここまで、ずっと気を張り詰めさせていたような気はする。笑顔など、今まで数えきれないほど作ってきたのに。

「――それにしてもエルト。何でいきなり弾き語りなんてやったんだ?」
リグが尋ねる。エルトは何でもなさそうに答える。
「実はリリザで購入していたんですよ。安かったのでね。それで、今日、ミモザ王女に僕の楽器の腕前を披露する約束をしてしまったので、ちょこっと練習をしておこうかと……」
「まあ、練習だったのね」
「ははーん、道理で。途中でちょっとアレ? って思うトコが何カ所かあった気がしたのはそのせいかー」
「あ、酷いなーリグ王子。何事も練習しなきゃ上手くならないでしょう」
「それはそうだけどな」
言い合いながらエルトは立ち上がり、楽器をケースにしまった。冷えてきたので、今日は練習はやめにする、とのことだ。
「――ミモザ王女」
「は、はい」
ケースにしまった楽器を担ぎ、エルトはミモザに向き直った。そして、その翠の瞳を彼女に真っ直ぐに向け、こう伝えた。
「これからどうするか。それは明日考えましょう。とにかく今夜は、何も考えずにゆっくり休んで――とは言っても、なかなか難しいでしょうけれど」
「……ええ、そうね」
これからどうするか。それはミモザ本人にとっても重要な問題だった。エルトは部屋へ戻るために中庭を去り、リグも窓を閉じた。同じようにミモザも窓を閉めて、それからひとり、暗闇の部屋で立ち尽くした。

(ムーンブルクは、もう……ない)

彼女が親しんだ城も、街も、家族も、従者や侍女、城の兵士、城下町の住人たち……。みんな死んでしまった。彼女の周りを取り巻いた人達は、みんな。
(わたしはムーンブルクの、生き残った最後のひとり)
王族として、そして生き残った者として。いったい何をすべきなのか。その答えはもしかしたら、もう出ているのかもしれない。

「――まだ食事が途中だったわね。残すのはもったいないわ。ぜんぶ食べないと」
独り言を呟き、ミモザはふたたびパンをかじった。



「うー…」
翌朝。
ミモザ王女を泊まらせた部屋の前で、エルトは立ち尽くしている。
その隣で、リグがエルトを小突いた。
「おい、いいからとっととノックしろよ」
「でも」
「でももヘチマもねえッ。俺たちだって先を急ぐ旅だ。アイツがこの後どうするかなんて、アイツが自分で決めることだろーが」
「そうだけど、でもなんか、王女をひとりこの町に置いて行くのかなと思うと、どうにも気の毒で……」
「このお人好しさんめっ! いーから開けるぞ!」
と、ノックもなしにリグは乱暴に扉を開け、ずかずかと中に入った。わたわたと慌てるエルトが後に続くと、部屋の中には、裾に赤のラインが入った白のワンピースに身を包んだミモザの姿があった。

「……へ?」
「あれ?」

呆然とする王子たちに気付き、ノックくらいしなさい、と告げてからミモザは軽くその場でターンして見せた。
「どうかしら、これ。宿の女将さんがね、若い頃に着ていたドレスを下さったのだけど」
「……素敵ですね。とても可愛らしい」
エルトが率直な感想を述べると、照れたように頬を少し染めて、ミモザは二人に歩み寄った。

「――リゲル・アルニラム・ローレシア王子、そしてエルタニン・サマルトリア王子。お二人とも、色々と迷惑をかけてごめんなさい。わたしがここにこうしていられるのも、あなたがたのおかげです。ありがとう」

改まって言われた礼の言葉を、二人の王子はこそばゆく思いながらも素直に受け取った。

「――それから、わたしの今後についてですが」
伏し目がちにミモザは自らその話題を出した。どきりとして、エルトは服の裾をきゅっと握り締める。

「わたしはロトの血を引くムーンブルク王の娘、ミモザ・ミラハート・ムーンブルク。呪いによって犬の姿にされ、この町へ飛ばされました。そしてムーンブルクは……ハーゴンの軍団に襲われて……。わたしは、わたしから大切なものを奪い尽くしたハーゴンを許せない。この手で殺してやりたいとさえ思うわ」

朝の光が、まるで後光のように彼女を照らし出している。その赤い瞳は闘志の色に染め上げられていた。

「わたしもロトの子孫のひとり。だから共に戦います。どうかわたしを、あなたがたの仲間にしてください」

既に決意を滲ませた表情だった。そんな表情を見せる彼女に、危険だ、とか、女の子なんだから、などという野暮な台詞を言うことは、二人の王子にはできなかった。

かわりに、リグとエルトはそれぞれに、彼女に手を差し出していた。
「――そんなに言うんなら、しょうがねーな。俺は心が広いからな。一緒に行こうぜ」
「あなたが共に戦ってくれるのなら百人力です。頼りにしてますよ。行きましょう――三人で」
そんな二人の手を、ミモザは両手を出して握った。握ったそれぞれの手は温かく、血の通った人間の手であった。

「………ありがとう、二人とも」




「あ、あなたは……まさか、ミモザ姫っ?」
準備を一通り整えて、宿屋を出たところでそんなふうに声を掛けられた。ミモザたちが声のしたほうを見ると、痩せた兵士が一人、震えながらこちらへと向かって来ていた。
「ああ、やはりミモザ姫ですね……ご無事でしたか……ッ」
「あなた、その紋章――ムーンブルク兵ね」
ミモザの前で跪き、兵士はこくりと頷いた。そして深く深く頭を垂れて、あの日――ムーンブルクが襲われた日、王や城の者を置き去りにして逃げ出してきたことを告白した。

「私はなんと情けない兵士なのでしょうか……! 私は自分が恥ずかしい! 姫様にももう顔向けできませぬ…。…ですがせめてもの懺悔と謝罪をと思い、こうしてミモザ姫様の御前に姿を現した次第でございます……」
兵士は泣いていた。その身体はかたかたと小刻みに震えている。そんな兵士をじっと見つめ、ミモザはやがて腰を屈めて声をかけた。

「いいのよ、顏を上げて。誰もあなたを責めることはできないわ」

リグもエルトも、事の成り行きをそっと見守っている。

「ひ、姫様……」
「あんな恐ろしいことがあったのだもの。逃げ出したとしても不思議ではないわ。それにあなたは、あの日の惨状を目の当たりにした数少ない生き証人です」
語りかけるその瞳は、先程とは打って変わり、穏やかな君主の色だ。

「わたしはこれからハーゴン討伐の旅に出ます。ですからどうか、わたしに代わって、あの日のムーンブルクを伝えてください。そして、あなたの人生を歩んでください。せっかく生き残ったんだから、いなくなってしまった人たちの分まで、この世界で生きてください……お願いよ」

「う、うううっ……」
兵士はしばらくのあいだ、その場に泣き崩れていた。



「――ミモザは凄いな」
「え?」
「あんなふうに言えるなんてさ。かっこいいよ」
ムーンペタを出て、エルトがミモザに話し掛けてきた。ねえ、と同意を求められたリグも、先頭を歩きながらも首だけで振り向いた。
「まあな。王女様としては及第点じゃねえの?」
「そう、かしら」
実は少し自信がなかった。最後の王族として、一人の人間として、同じ故郷を持つ者に対してかけられる言葉は、あれだけだったのだろうかと。もっと他に、もっと良い言葉があったのではないかと。

だから二人からそう言われて、ミモザは少し安堵していた。


「――ねえ、そういえば次はどこに行くの?」
歩きながらミモザが問い掛けると、エルトとリグが口々に説明を始めた。
「それなんですけどね、実はラーの鏡を探しに行った途中で、遠くの方に塔が立っているのを見たんだ」
「それで二人で、あの塔気になるなっつってたから、行ってみようかって話になってさ」
「塔? それって、もしかしてムーンブルクから東の方角の?」
「そうだよ。あ、やっぱりご存知でしたか」
今日はよく晴れている。風がエルトの髪を揺らし、ミモザの髪も揺らす。
「風の塔と呼ばれている塔よね……。あら、じゃあ方向が違うわよ。あの塔、西から南にかけて険しい山で囲まれているの。風の塔に行くなら、ムーンペタから北上していって、回り込んで行かなくちゃ」
「えっ、そうなの!?」
「マジかよ、知らねえぞそんな情報!」
うっかり南へ向かっていた三人は、ミモザの言葉で慌てて引き返した。

「うーん、やっぱりミモザが仲間になってくれて良かったな。ね、リグ」
「おう。危うく盛大な無駄足を喰らうところだったぜ」
ムーンペタをこえて北へと行く道中。そんなエルトとリグの会話を聞いて、ミモザはやはり笑ってしまうのをおさえられなかった。
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